ゼロワン持論

 令和で最初の仮面ライダーシリーズ、「仮面ライダーゼロワン」が完結した。

 問題点として挙げられるのは「お仕事五番勝負」パートに代表されるZAIA編である。その他の問題点においては擁護の立場を取る自分だが、「お仕事五番勝負」ばかりはもっとやりようがあったはずだと思わざるを得ない。滅亡迅雷.net編は基本的に一話完結式であり、その中で新たなプログライズキーやライダーが登場したりゼロワンが強化形態を手に入れる等、テンポよく話が進んでいた。しかし「お仕事五番勝負」は人間ドラマを描く必要があるためか二話完結式を採っており、やや話の展開が冗長であった。人間ドラマ部分も三、四番目ではそれなりに楽しめたのだが、一、二、五番目のドラマ部分はいささか陳腐だったと記憶している。

 しかしそれ以上に問題だったのは、毎週のように主人公陣営が一方的にボコられる戦闘パートだろう。滅亡迅雷.net編の終盤に満を持して登場した強化形態シャイニング(アサルト)ホッパーやアサルトウルフが登場から数週間で仮面ライダーサウザーに全く歯が立たない型落ちフォームに転落するのはあまりにも味気なかったし、二話完結ゆえにその状況が長く続くのである。しかもメタルクラスタホッパーが登場するまでパワーアップは無し、そのメタルクラスタホッパーさえMADE BY ZAIAという有り様であり、サウザーに戦闘力で歯が立たないのは分かっているのにろくな対策もせず挑み続ける主人公陣営が愚かに見えてしまった印象は、おそらく後述の問題点と無関係ではない。

 ZAIA編の構図は「飛電インテリジェンス vs ZAIAエンタープライズ」の企業対決なのだが、その企業感があまりにも薄かった。それぞれの陣営の支持者についてはほとんど描写されず、正直「飛電或人 vs 天津亥」の個人的な対決にさえ見えるものだった。おそらくゼロワン世界の社会には、ヒューマギアに職を追われた失業者が大勢居る。ゼロワンと同じく、人間と自我を得たAIとの関わりを描いた「Detroit Become Human」などはそうした社会問題を生々しく描いた作品だったが、ゼロワンは子ども向けゆえかそうした社会構造的な対立はぼかされている。社会のヒューマギアに労働力を依存した面と、ヒューマギアが人間を追放し始めている面との対比がおそらく先の企業対決に象徴されたのだろう。個人的には、悪意からレイドライザーを手にするのが責任あるはずの社会人であるところに違和感を抱いていたが、暴走するのが失業して自棄を起こした人間であれば違和感はなかったように思う。肝心なところをぼかしたことでZAIA側がただ傍若無人に振舞うように見えてしまったのではないだろうか。(もっとも、ニチアサで失業者問題を真剣に取り扱ってしまうと、ちょうど親が失業してしまった家庭などにクリティカルヒットしてお茶の間が氷点下になる可能性がある以上、仕方ないところではある。)

 「何かの拍子でマギア化するかもしれないヒューマギアを使い続けるのは不自然だ」との指摘が見られるが、おそらく先述の通り労働力をヒューマギアに依存した社会はもはやヒューマギアなしでは立ち行かない。その程度のリスクはコラテラルダメージとして勘定しなければならないほど、社会がヒューマギアに依存しているのだ。ZAIAはそれへのカウンターとして、人間でもヒューマギアに匹敵するパフォーマンスを発揮できるようになるZAIAスペックの販売に踏み切ったのだろうが、それは人間を暴走させる危険性を孕む、ヒューマギア以上に危険極まる代物であった。まだ暴走ロボットの方がマシである。(天津はZAIAスペックを意図的に暴走させてマッチポンプ式にレイドライザーを販売しようとしていたが、そんなリスキーなことをするならヒューマギア問題を放置して飛電に責を負わせていた方が効果的だったのでは……?ゼロワン脚本の拙い所はZAIA周りに集中している。やはり当初の脚本で描こうとしていた社会問題が重すぎて脚本を歪めてしまったのではないかと邪推しているが、真偽を知るところではない。)また、最終盤では滅の声明に感化されたヒューマギアがデモを行ったりマギア化するなど人間に敵対的な姿勢を見せたが、飛電の警備員型ヒューマギアは職務を全うしていたし、その後の円満な展開からは暴走したのはごく一部のヒューマギアだったとも考え得る。しかし与田垣の慌てぶりを見るに問題は相当大規模だったともまた考え得るため、この辺りは推測の域を出ない。

 ヒューマギアの「人権」問題だが、これは「ヒューマギアが人間と同質になる」と見るか「ヒューマギアが人間に並ぶ存在になる」と見るかで変わってくる。自分としては前者の解釈は稚拙と唾棄したく、後者の立場を取るものである。「ヒューマギアは破壊されても復元すればいいや」との姿勢が倫理観に欠けるとの指摘だが、そもそも人間とヒューマギアは同質ではなく、人間の倫理を適用し得るか怪しいものである。人間はどうしたって蘇らないが、ヒューマギアの復元は技術的に可能であるのだから問題はない。仮に初めから人間は死んでも蘇らせられる、そういう存在だったのならば、我々視聴者に巣喰う死人返りへの忌避感など存在しなかっただろう。そしてヒューマギアは、そういう存在なのである。しかし劇中、迅は滅の「死」を悲しみ、滅もまた迅の「死」を悲しんだ。これが事態をややこしくしている。これは彼らが人間をラーニングしたことで、人間の行動をエミュレートしていることに起因する。それでもゼロワン完結後、ヒューマギアたちは総体として自我に目覚めつつも「我々は人間に似ているが、違う存在である」とラーニングしてゆくだろうし、人間社会もまた適応的に変容するだろう。ヒューマギアが人間と同質化せんとするのは、ヒューマギアという一種族の歴史において「親離れ」するまでのごく短い間なのだ。「仮面ライダーゼロワン」の物語、そして結末は、二つの知性種族の共存の歴史の「黎明」を描いた作品と捉えれば何ら不自然ではない。決して諸々の問題が解決されたわけではなく、むしろヒューマギア事業の拡大は人間とヒューマギアとの衝突を激化させ得る。そしてアズと仮面ライダーエデンの存在が示す通り、アークは事実永遠のものとなった。人間もヒューマギアも悪意を克服してなどいないし、きっと未来永劫できない。ゆえに、滅と迅は悪意の監視者となることを選んだのだ。彼らが監視者たり得るのは、ヒューマギアがバックアップと復元とを駆使することで人間よりもずっと永らえることができる存在だからである。特に滅は、悪意を心に抱えてなお争いを鎮めることができる者、飛電或人が確かに生きていたことの証人でもあるのだ。

 飛電或人は悪意を克服してなどいない。自身の心に悪意が巣喰うことを受け容れ、それでも憎き敵である滅を許すことができた点において、彼は主人公である。其雄が説いた強さとは、敵を滅ぼす力があるにも関わらず、敵を許すことができる心の強さである。復讐を否定し、争い、すなわち悪意の連鎖を終わらせることができる強さである。(最終話で突然「仮面ライダー」概念が表出してきたのには違和感があるが、「仮面ライダー」とは正しさのために危険で強大な力を行使する者であるとのメタ的文脈に拠るならば、一応筋は通っている。一応だが……。)